経済学基礎ゼミの履修申し込み用レポート

なんとなくここに残しておく。もしこの講義を受講できたらbefore-afterで貨幣についての考え方の遷移を見るのも面白いかもしれない。

はじめに

当初、このレポートを作成にあたり、「資本論」を軽く読んでみようとしたが、図書館に出向いた所、あまりの量に圧倒され諦めた。ふと、本棚の横を見てみると「FOR BEGINNERS 資本論」というマンガチックな本があった。手にとって読んでみるとどうやら「資本論」が完結にざっくりまとめられているように見える。最初はこんな本からでも始めてみるか、と思い、読み通した。以下はこの本の内容、及びそれを読んだ私の考えに基づくレポートである。

1.「商品」について
「商品」についてアダム・スミスは以下のように言っている。すなわち「商品とは使用価値であるとともに、価値である」。ここでの使用価値とはすなわち、この商品が本来持つ性格のようなものだと考える。例えば商品が食料だったとしたらその商品の使用価値とは「食べること」、もっと細かく言うとその食料の持つカロリーであったり味、風味であったりするだろう。では価値とは何か。それは交換のためのものである。貨幣の存在を考えないとしても、何らかの代替物と交換できない場合、それは商品ではない。すなわち、「商品」とは本来の使用価値とはまた別に、他の何者かに換算可能なものであるという性格を持っていなければならないといえる。

2.「交換」について
アリストテレスは2つのものの「価値の等しさ」を否定した。5つのベッドと一つの家を交換するとして、この二つの交換が成立するということは(この二つのものに)なにか等しいものが含まれているように見える。しかし、ベッドと家は同じものではない。この何か同じ物が含まれているというのは錯覚なのだ、と。確かに、我々は全く同じものを交換しない(意味が無いからだ)。しかし我々は違うもののいわゆる「価値」を何かの尺度で確かに測っている。そのものさしはなんなのであろうか。
この別のもの二つに含まれているもの、それこそが労働である、とマルクスは考えた。一つの家を作るのに一ヶ月かかるとする。五つのベッドを作るのにもまた、一ヶ月かかるとする。これは、材料を手に入れる手間諸々も込みの時間だとする。このとき、2つのものの交換は、確かに成立するように見える。実際には家とベッドではあまりに吊り合わないように見えるかもしれないが、少なくとも「かけた労働」というものさしにおいてこの2つのものは全く等しく、だから(そのものさしを採用するなら)交換は可能なのだ。

3.「労働」について
先ほど「労働」を比較する、と言ったが、では実際問題物質的に等しくない労働をどうやって比較するのであろうか。たとえば、時計を作るのと山でうさぎを追いかけるのとでは、明らかに労働の種類が異なる。にもかかわらず交換を簡単にするためにこのような異なった有用な(具体的な)労働は、あたかも等しいかのように扱われる。言い換えれば、有用な労働は抽象的労働に換算する事ができる、ということだ。
4.「貨幣」について
ついにこの講義の本質である貨幣の存在にせまる。まず、「価値」というものは3つの形で存在するとある。すなわち商品、価値、資本として。商品とは、前述のとおり交換のために生産された使用価値だ。貨幣とは、全ての他の商品の等価物である普遍的な商品である。資本とは、より多くの貨幣を生むために投資された貨幣である。ここでは資本はひとまずおいておいて、貨幣について考える。貨幣=金ではない。貨幣とは、すべての商品の価値を測る尺度である。歴史的に見て一番貨幣として使われてきた商品が「金」なのだ。
原始の時代、金は他の一般的なものと変わらない単なる一つの生産物に過ぎなかったが、今の時代、金唯一あらゆるものと交換可能な、一つ抜きん出た商品となった。ひとえに金が貨幣としての価値を得たからであるといえる。

まとめ
「貨幣」を考えるにあたってまず交換について考える必要があった。物質的に等しくない2つのものを交換可能にする尺度として労働、それも抽象的労働が最初に用いられた。そして普遍的な価値の尺度として「貨幣」が生まれた。つまり貨幣とは人間の「より公平な交換がしたい」という気持ちの表れである、と私は考える。そして貨幣が資本として扱われるとき、さらに貨幣は違う力を持つようになる…と続いているが、此処から先はまた暇が出来たら突き詰めようと思う。