日記 2019/04/22 とユーフォ映画の感想

無駄に早起きして出勤したらずっと頭が重かったので後悔した。やはり睡眠は8時間必要。

劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~の感想を書きます。

良い物語というのは一般的なテーマを作者の深いドメイン理解が活かせるモチーフに落とし込んで寓話化したものだと思っていて、つまり良い物語から受ける究極に抽象化された情報というのはだいぶ似通ってくる。自分が初めてそのことを明確に意識したのはアイドルマスターシリーズのアニメだったので、自分が言う実質アイドルマスターというのはつまり良い物語であった、という意味の言葉にすぎないという前提を書いたうえで言うんですけど、

いや、実質アイドルマスターでしたね……

ここからは真面目な感想

特に最近社会人いちねんせいになって、組織と個人ということを考えていたのでタイムリーなおはなしであった。

人生を複数回生きることが(おそらく)不可能な以上、いや仮に複数回生きることが可能だったとしても結局人間は基本的に今まで学習したケースから帰納的に一般化された(と思いこんでいる)法則を導き出して(あるいはしたと信じて)生きるしかなくて、今回の久石奏のあり方について誰もなにもケチをつけることはできないと感じたし、むしろ作中で言われているより遥かに素直に彼女は自分を取り巻く社会に対してその社会のあり方を問うていたと感じた。もちろんそれは究極的に作品がエンターテイメントであることからの必然性というものも多分にあるんだろうけど、その「下手さ」こそが人生を諦める前の年代の人間に与えられた脱局所最適の機会なようにも思える。

劇場版アイドルマスター天海春香の物語であると同時に矢吹可奈の物語であり、もっと言うと北沢志保の、水瀬伊織の、星井美希の…つまりキャラクター全員の物語であったように、今回の映画も黄前久美子の、久石奏の物語でありながらやはりその他全員の物語であったと思う。尺が足りてたかはともかく。まあ裏でリズが進行してたわけだけど…それはそれとして塚本秀一くんを応援する会の人間だったので、塚本秀一くんが本当に良い立ち位置でよかった。

組織について…というかそもそも「組織」という抽象概念について一般に言えることがあるのかということを最近考えていた。例えばよく例にあげていたのが会社と(大学的な)サークルで、それぞれ「定量的な評価関数、およびその出力に対しての目標があるか」「構成人間の所属意志の自由度はどのくらいか」などのパラメータがあり、それらが異なるただ「人間が集まっている」ということのみを共通項として持つような二つの言葉についてどれくらい一般化できることがあるのか。 今回で「部活」という概念を完全に失念していたなと気づいたんだけど(全く部活をやったことがなかったので…)、ここで重要なのが部活というものは構成人間が入れ替わることによる人間の入れ替わり、また(様々な文脈での)役割の引き継ぎが行われるということだった。これにより、黄前久美子にはコミュニケーションの機会が強制的に与えられる。

コミュニーション讃歌になってしまうのはやはり難しくて、エンターテイメントは後味が良いことが基本的に絶対条件なので実際にはディスコミュニケーションのリスクも現実にはある。それでもあえてそのご都合主義を除いて言うなら、黄前久美子はこのコミュニケーションの必然性によって救われていったキャラクターなんだと受け取っている。

一期では高坂麗奈からのアプローチによるわかりやすい救いだったけど、二期では田中あすかを救おうとし、その救おうとする行為に自らが救われ、結果として姉との関係性についても一つの結末を迎えることになった(ような印象がある、ちゃんと覚えてない…(こんなに偉そうに言っておいてそれ?))。今回もそうで、当初は後輩である久石奏を導く、あるいはコントロールするという視点に立っていた黄前久美子が、結局は自らの哲学を口に出す必要に迫られることで迷っていた自分のあり方のパーツに気づくという構造になっている。

久石奏の一番良いな、と感じたところは人間は納得で動いているという哲学を持っていたところで、この言葉自体はほとんど本質を突いていたと思う。ただ今回の原因はそのコアの哲学と、分離可能な価値観(部活における年功序列的な心情)を分離しなかったことから来たのかもな、と考えている。同じ一年の鈴木 美玲が部活のヒエラルキーについて質問した時、あるいは黄前久美子に両鈴木の印象を訪ねた時、サイゼリアで昨年の経緯について尋ねた時、彼女は祈るような気持ちがあったのだと思う。

彼女の懸念は本当に正しく、人間は感情の生き物であり、そして感情はコントロール不可能なものである。公明正大なヒエラルキーを提示されていたとしても、全員の感情が完全にそれに沿う保証はどこにもない。それはたとえ北宇治高校でもそうなはずで、だから彼女に必要だった言葉としては、中川夏紀の「北宇治高校はそんな学校じゃない」という言葉ではなく、「私と中川先輩はあなたの味方になるよ」という言葉だったのだと思う。他者の行動を保証することはできないが、自分の行動を宣言することはできる。アニメアイドルマスターシンデレラガールズのもっとも好きなところもそれで、プロデューサーは決してアイドル島村卯月の手を引くことはせず選択を迫った上で、ただ共に進むことだけを語る場面があったのだけど、それと同じだなと思った。

今作の象徴的な場面として「共有」というものがあったと思う。高坂麗奈とのみかん飴の共有、塚本秀一とスコール(っぽく見えた)の共有、久石奏との水筒、プリンの共有。アニメの演出を記号的に見てしまうのはあまり良い癖ではないんだけど、この食べ物の共有は(みかん飴は購入してきたのは黄前久美子だったとはいえ)すべて相手側から提案されたものだった。本質的に受け身であることのメタファーとしての統一演出だったと思うんだけど、最後に黄前久美子は過去に高坂麗奈がコンクール結果に大泣きしていたというエピソードを自分から久石奏に「共有」する。このことにより黄前久美子と久石奏は初めて心を開いた関係になり、その結果として最後のバスのとなり席に座った彼女に今の気持ちを確かめ、悔しさという感情を共有していることを確認するのだな、と思った。

とか結ぶとそれっぽいですね。良い映画なのでまた見直すと考えることがありそうです(触れてないけど他にも言えることはたくさんある)。アイドルマスターも見返したくなりました。

マジでどうでもいい実質アイドルマスター要素

  • 生意気な後輩である雨宮天
  • 雨の中追いかけっこ
  • なんか横顔が異常に天海春香さんに似てる部員