勉強方法

今僕は大学に通っていて、それなりの密度で出席している(少なくともそのつもり)のだけど、まったく学びを得られている実感がない。退屈な講義とバカみたいな量の板書は、ただでさえ少ないやる気をどんどん摩耗させていって、気づけば眠気しか残らない。そして大学の講義室の寝心地は概ね最悪と言っていい。腕を組んで枕にしようにもそれをやると起きた後に必ず足がしびれてしばしば前の席の人間にけられて大変な苦痛を味わうことになるのでよろしくない。
さて、今日は京都市に愛車をかっぱらわれて宝ヶ池の放置自転車保管所まで叡山電車と徒歩でゆるりと向かったんだけど、そこで不意に今まで自分がどのようにしていわゆる「勉強」をやってきたかを考えた。
そして思い返すとなんでこんなことを忘れていたんだ、というくらい大切なことに気が付いた。僕は講義、というか大きく言うと何かしらの教育機関から学びを受けたことがほとんど無かったのだ。特に大学入試のための受験勉強が最も近い思い出だが、基本的に勝手に本を買って適当に進めて自分なりの理解を得て問題を解いたりして、どうしても求められている解答と食い違うところだけを教師に質問したりしていた。そもそも板書というのをロクにとれた最後の記憶が中学受験用の塾時代か、もしくはそれすら怪しかったかもしれない。ノートというのは「とらないとどうやら怒られるからとりあえず書いておくもの」という認識で、後から自分のノートを見返した記憶は、その自ら進めた勉強のノート以外には全くと言っていいほど無い。中学時代にはよく各教科の教師から「ノートを取れ」と指摘され続け、そのたびに一冊の「べんりノート」なるものをカバンから引っ張りだし体裁だけを整えてごまかしていたものだけど、あとから見ると英文の途中でページをめくると急にベンゼン環が出てきたと思えば向かいのページには方程式のグラフがあり、その下には平安時代の短歌が書いてあったりというなんともお祭りのようなノートであった。とにかく、僕は大学生になって勉強ができなくなったというより、せっかく見つけた自分なりの習慣のようなものをまったくきれいさっぱり忘れてしまっていたのだ。
というわけで試しにこの習慣を復活させてみようと思う。もともと講義に出ていても何も得るものは無いし、試してみるだけ得だと考える。出席点だけはもらいに行くけど。

「御冗談でしょう、ファインマンさん」を読んで、エッセイっぽく文章を書いてみたけど自分が書くとやっぱりどうにも寒々しい。やっぱり読ませる文章が書けるようになるにはまだまだ遠い。