高尚な文章を書こうとした結果ゲロみたいな文章になったという結果。

以下ゲロ。

日本人である限りほとんど人間が文字を書け、したがって文章を書けしたがって小説をかけるはずなんだけど現実はそうではないのだ。自分が吐き出す文字列はかろうじて文章ではあるがとても小説にはならない。何回書いてもならないものはならない。悲しい。
ライトノベルをまあまあな量摂取しているととんでもなく寒い作品に出合うことがある。痛いといってもいい。ひたすらに読んでいるとうすら寒く嫌悪感がぽんぽこわいてきて、速読のような速度で無理やり読み終えてしまう。何が違うのだろうか。いい小説からは作者が透けない。つまりそれは語るべくして語られた物語であり、人の手の匂いのようなものは完全に消え去っている。ところがひどい小説になると、それを語る人間のひどい口臭すら伝わってくるような気がする。作者がなれなれしく肩を組みながら語りかけてくるようだ。「このギャグ面白いだろ、この展開は熱いだろ?」面白くないし熱くない。痛い、寒い。ペンを折ってキーボードを焼いて畑で野菜でも耕してくれ。これを読むのに費やした時間を返せ。
自分が書いた小説の破壊力ときたらさらにすごい。ひたすら死という感じだ。書いてある文字がすべて「死」に置換されて見える。恥ずかしさで吐き気がして情けなさで目がくらんでやるせなさに涙する。
他人様の読書事情は寡聞にして存じ上げないが、今までの人生経験から類推するに、おそらく自分は人並み以上には本を読む。必然、紡がれる文章も洗練されたものになると思っていた。そんなことはない。大食漢が料理上手か。音楽愛好家はすべからくミュージシャンか。必要条件であるかもしれないが十分条件ではないのだ。優れた生産者になるには才能もしくは努力が必要だ。読書は文章を紡ぐ努力とはほとんど関係がない。むしろ悪影響さえあるかもしれない。変にこじらせたせいでこんな感じの気取った文章になる。
西尾維新は漫画が描けないから小説を書いたらしい。自分の知り合いにもSSをSNSに投稿している人間がちらほらいる。自分には出来ない、と思う。
ゲロみたいな文章にオチはない。ここは痰壺であり、深夜の場末の電柱だ。ここにゲロを吐くことで1pmくらい気分が楽になったような気もする。
自分がしたいことの中に、できることが全然ない。それは今まで全く努力をしてこなかったからで、そんな人間が都合よく報われる世の中なんかクソだと思うので、したがって自分がクソなのはまったく哲学に適ってる。棚に上げられるくらい利己があれば、よかったのにね。