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社会適合

化物語の八九寺本に収録されていた西尾維新神前暁の対談を読んで感じたことをメモしておく。
話の中で、社会人としてまともな生活をしようとすると、生産力が下がっていく。でも、自分よりまともな生活をしながら一流のプロダクトを出している人はいる。難しい。という話題が挙がった。
最近某人の留年エントリが騒がれて、ある種「型破り」的イメージを見せていた人も要るけど、基本的にはそりゃ留年をするのとしないのではしないほうがいいに決まっている。ストレートで大学を卒業しなおかつユニークな個性を持った人間は山ほどいる。比較すると、そちらのほうが優れている。

というのは本当にそうなのか。

人間の各種パラメータをすべて二元論で考えることに無理があるんじゃないかと考え出したのはあんまり最近の話ではない。あんまりうまくいえないけれど、数値化した値のみで人間が定まるわけではないという考えだ。
もちろんこの考えは大幅に自己弁護を含んでいることは自分でも承知している。僕は相当に劣等生だし、自分の哲学で自分をくずにしてしまうのはあんまりやりたいことじゃない。なるべく自然に自分をかばうような考え方をすえてしまうのはしょうがないと思ってほしい。
たとえば最近「人間力」をテーマとした入学試験の是非などがたまに話題に上がったりするが、まぁ言葉は頭悪いけどああいうものも無くはないんじゃないかな、と思う。あの問題はそれがComperableなのかという話でそれは今はどうでもいいのでおいておくけど、単純に各能力値(それは知識とか経験とか体力だったりするのだろが)の試験でなく、面接というプロセスが今までそこそこ重視されてきた経緯からもみんな無意識ではちょっと位はそう思っているんじゃないか、と思う。

簡潔にまとめると、すべての要素を総合して始めて「その人間」というひとつの単位になるので、単純に各値を比較することに意味の無い場合も存在するのではないか、ということ。

クズの自己弁護にしか見えない文章だけど実際そうだからまぁ仕方の無い話ではある。