ちゃんとした文章

思うところがあって、ちゃんとした文章を書きたくなった、のでちゃんとした文章を書こうと思う。
過去の自分が書いた文章を読むと、あまりの軽薄さと内容のまとまってなさに吐き気がする。昔から適当に話してその場でちょくちょく修正を入れながらニュアンスを伝えるという話し方をしてきたせいで、一度にちゃんとした文章を構成するということがまるでできないようになってしまってる。よくないことである。
ちゃんとした文章。ちゃんとした文章とは、もちろん込めた意味が受け手に伝わるような文章のことだ。文章には美しさというパラメーターも存在する(と少なくとも自分は考えている)が、それとこれとは相関はあっても=ではない。これは美しいコードとちゃんと動くコードが=でないのと似ているかもしれない。美しくなくもちゃんと動くコードもあれば、美しいが実はちゃんと動いていないコードもあるだろう。
自分が生み出したものは、+であれ-であれ評価がぶれる。これは客観的な目線で見ることができてないからなわけだけど、そもそも完全に客観性を排除することはできないというのが僕の持論だ。できないことを努力することによって得るものは(それによって得られる偶然の副産物を除いては)まるでない。僕達にできること、すべきことはできもしない客観的な目線を追い求めることではなく、貴重な意見をくれる友人を探すことであろう。
ここまで書いて、読み返してやっぱり吐き気がする。コードは自分が書いたものが一番読みやすいのに文章となると真逆になるのはどうしてなんだろう。
去年の今日の日記を読み返して、去年の僕が今の僕を見たらどう思うか、少し考えた。おそらく、かなり喜んでくれると思う。こうなりたい、と思っていた方向に対して何かしら進んではいるからだ。
一方で今の自分の現状評価は、やはり厳しい。僕にとってどうでもいいことは僕にとってどうでもいいことなのだが、完全には世間の評価というものを捨て切れていない。そのくせ、それだけにしたがって生きていてもおそらく幸せになれないんだから難しすぎる。そういうものから解脱しようとずっとうなりながら格闘しているが、しばらくは苦しみが続きそうだ。
でも、やっぱり大局的に見た自分の進んできた道は正しかったと思える。僕は何かを創造できる人間にずっとあこがれていたし、今はその端くれの端くれぐらいには立つことができた、と思っている。違う側の世界と思っていた人と交流したり、実際に少しずつ何かを作っていくことで徐々に知らないうちに橋を渡れはじめている気がしなくもない。
やっぱりどこまでいっても欲深さはついてきて、ずっと「こうなりたい」という対象は存在し続けられるんだけど、たまに振り返って「まぁいいか」と思えるような道を進んでいきたいと思っている。
この文章、ちゃんとした文章になっていたかな。
追記
推敲も大切。