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コース配属に敗北した。未配属じゃなかっただけまだマシだったのかもしれないけどそれなりに回り道をするハメにはなったのでもう少し勉学の方に本腰入れなくてはなぁという気分だ。

まぁ大体の目処が立ったので後は実行するのみだ。一回生の時点で大学に登校する大切さを知れたのは収穫だったと思う。これからは毎日登校したい。

さてコース配属失敗にあたり、色々な人達から色々なことを言われたわけでそのへんのことについて少し考えてみたいと思う。

自分は性分的に、他人を明らかに非難したり馬鹿にしたり出来ない。これは明らかな欠点として認識している。自分のことを棚に上げて他人を批判することによって溜飲を下げ、ストレスを解消することができる人間は強い。憎まれっ子なんたら的なアレ。

さて、そういう性格とは言えそういう人間達の言葉を真に受け、自分でまた自己を批判し、そういう人間が危機に陥ったときに少しスッキリした気分になることを認識して自己嫌悪に陥るのはあまりに馬鹿らしい話だ。

他人を批判することが出来ない分こういう人間には強い自己肯定力が必要となる。

自己肯定力とは自己を肯定する力である。詭弁であっても何かしらの論理を構築し(一見)矛盾なく自らの非を否定する。アホのように聞こえるけど、なかなか難しい。

これは、現在降り積もってるタスクに関しても言える。簡素に表現すれば「僕は悪くない」という言葉に尽きる。実際の所責任の所在が明らかであることというのはかなり少ない。手続き的な所を無しにすれば大体の話は実は個々の印象のみに基づいている。そこの柔軟さを活かす。

他人を明示的に責めるわけではないということに注意する。まず何より上記のような人間との差別化がアイデンティティの一つなので、さすがに根幹に矛盾する行動をとってしまうのは危ない。包括してみるとかなり底意地の悪い道だけど、そのことは誰にも知られる余地はないので良い。

まとめよう。つまり、他人がやるようなことを外向きにするか内向きにやるかの違いである。違いは言質のリスクと他人への被害である。正直なところ自分は臆病なのだろうと思う。実際はやったぶんだけやり返されるという世の中ではないのでやったもの勝ちなのだけど。

 

容赦の無い人間になってしまうと間違いなく中高の以前の友人は消え去ってしまうだろう。必死に本人よりも他人を肯定しているが実際これが真摯な態度とは思っていない。もし忌憚なき意見を求められたら言うかもしれないけどそんなものは経験、環境に依存した意見だから何も一般的ではないので聞く必要はない。そういうことを言い合っても響かない仲の友人とかが欲しかったけど、ついぞ得ることのないまま20歳あたりを迎えそうで、少し悲しい。

他人を信用していない限り他人と真に相互に平等な関係になることは出来ない。

取り敢えず何も考えずに気持ちのよい行動を選択できてそれについて後悔しないような人間を、心から羨ましいと思う。

 

 

そういえば失敗作だったしまぁいいや。

 

 

追記

夜自転車で少し走った

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f:id:lastcat:20130402023616j:plain夜桜が綺麗でよかった。

墓は怖かった。